佐藤春夫は、大正時代に新進作家としてデビューして以来、詩、小説、評論、随筆など多くの作品を著し、小説「田園の憂鬱」、詩「殉情詩集」で文壇での地位を確立した。芸術院会員となり、わが国の近代文学界で大きな足跡を残した結果、文化勲章にも輝いた。芥川賞の詮衡(選考)委員としても活躍したが、同じく詮衡委員を務めた川端康成と比較すると知名度は驚くほど小さい。

かの有名な太宰治から芥川賞を懇願する手紙を受け取ったり、谷崎潤一郎の元奥さんと結婚したりで話題の多い人であったと同時に、与謝野鉄幹・晶子夫妻や永井荷風とも濃密な繋がりがあったことを考えると、他のビッグネームはすべて知っているのに佐藤春夫だけは知らないという人が多いのは不思議というか同郷人として残念でならない。

かくいう私自身も、郷里が生んだ日本を代表する偉大な作家であるにも関わらず、これまでぼんやりとした知識しかなかった。最近になって故郷への思いが強まる中で、自分が生まれ育った町の歴史と文化を改めて見つめ直してみたいと思っている。そのとっかかりとして、「望郷詩人」と言われた佐藤春夫のことをもう一度勉強してみたいと思っている。

佐藤春夫は、明治25年(1892)和歌山県東牟婁郡新宮町(現・新宮市)に生また。医師である父・豊太郎が文芸にも造詣が深くまた、当時木材業で栄えた新宮には大石誠之助、西村伊作、沖野岩三郎ら先進的な文化人が活発に活動していた。そうした環境の中で春夫は国木田独歩を読みふけるような文学少年として成長していった。

和歌山県立新宮中学校(現・和歌山県立新宮高等学校)在学中、佐藤潮鳴の筆名で校友会誌に「おらば籠」、1908年(明治41年)には『熊野実業新聞』に短歌6首掲載、『明星』に「風」の題で投稿し短歌が石川啄木の選に入り、和貝彦太郎主宰の「はまふゆ」の同人となり、「馬車・食堂」(短歌・詩)を発表。その後も『趣味』、『文庫』などに短歌や歌論を次々と発表し、1909年(明治42年)『すばる』創刊号に短歌を発表する。ここで生田長江、与謝野寛(鉄幹)、石井柏亭を知る。

明治43年(1910)、中学卒業と同時に上京。慶應義塾大学予科文学部に入るが、のちに中退。雑誌「三田文学」「スバル」などに詩歌を発表、また「西班牙犬の家」を発表してその才能が注目されつつあったが、大正7年(1918)、谷崎潤一郎の推挙により文壇に登場、以来『田園の憂鬱』『お絹とその兄弟』『美しき町』などの作品を次々に発表した。また、大正10年(1921)に『殉情詩集』を発表し、小説家、詩人としてたちまち新進流行作家となり、芥川龍之介と並んで時代を担う2大作家と目されるようになった。

その著作は多様多彩で、詩歌(創作・翻訳)、小説、紀行文、戯曲、評伝、自伝、研究、随筆、評論、童話、民話取材のもの、外国児童文学翻訳・翻案などあらゆるジャンルにわたっている。昭和39年 5月 6日、自宅でラジオ録音中、心筋梗塞のため72歳で死去した。

春夫の一生を駆け足で見たが、ご覧のように多岐にわたるジャンルにおいて発表された著作は驚くほど多い。明治末期から大正、昭和と旺盛に活動する中で関わった人物、特に有名作家も数多くいる。この後は、中でも興味深いと思われる話を厳選して少しづつ紹介していきたいと思う。

蓬城 新

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