田辺の別当屋敷跡という一画に、天正18年(1590)、弁慶松と呼ばれる周囲五抱えの大松があったことが古記録に記されている。三代目の松は昭和50年、松喰虫にやられて枯れ、現在、四代目が植えられているが、この松にも物部色の濃い土地柄と熊野別当の家印との深いかかわりがあるようだ。

ところで熊野別当の率いる熊野水軍は、平治の乱(1159)には平家方について戦った。田辺の湛増も頼政が兵をあげたときは、父湛快の意をついではじめは平氏に肩入れし、源氏に傾こうとする新宮の鳥居法眼行範・行快父子と対立した。

行範は湛増の母である丹鶴姫が再婚した相手であり、二人の間にできた行快は湛増にとって異母弟にあたる。丹鶴姫は自分の産んだ二人の息子がいがみあうのを見て心を痛めたに違いない。

「平家物語」巻四の「源氏揃」によれば、湛増は兵千人ほどを率いて新宮へと攻め入った。だが湛増は、新宮・那智の連合軍に破れ、その後、湛増は木曽義仲の挙兵、頼朝の義仲討伐にも、また義経が一の谷で平家を破ったときもじっと中立を守り、源平いずれにもつかなかった。

■田辺の闘鶏神社の由来■ 

戦局が大詰めに近づいてきてもなお去就に迷っていた湛増は、田辺の今熊野権現(闘鶏神社)の社前で、白い鶏七羽、赤い鶏七羽を蹴りあわせて神意をうかがった。いうまでもなく、白は源氏、赤は平家だ。

「白き鶏勝ちたるは、源氏にお味方せん」

鶏を蹴り合わせて白いが勝つのは、前もって決められていたことだったかどうか。いずれにしても、神意をうかがうというセレモニーによって腹を決めた湛増は、熊野水軍の兵船二百余艘に屈強の熊野衆二千余人を引き連れて、屋島の合戦に源氏勢に合流し、その後、壇ノ浦の戦いにも加わった。

白い旗を船のへさきにひるがえした熊野水軍の兵船を見た平家の軍兵は、どっと西の海へと逃げた。
この参戦で源氏との関係を深めた湛増はしばらくして21代別当の地位についた。その背後に頼朝・義経兄弟の叔母でもある母・丹鶴姫のとりなしがあったのは確かだろう。

■源氏の衰退■ 

しかし、髪を切って鳥居禅尼と名乗り、その時代の女性にしては長命だったと伝えられる丹鶴姫には、人の世のはかなさを嘆く日々が続く。

父の為義は、保元の乱で敗れてわが子・義朝に斬られ、その義朝も平家に殺され、丹鶴姫の弟の新宮十郎行家も首を斬られた。甥の義経もその兄である頼朝に誅せられるなど、同族同士の果てしない殺し合いが続いたからだ。鎌倉幕府をつくった頼朝が死んだあと、父方の源氏の血統は断たれ、世は北条の天下となった。

その後、実家の熊野別当家は急速に凋落していき、仏門に入った丹鶴姫は城山に丹鶴山東仙寺を建て、数奇な生涯をおえた。東仙寺で読経しながら、丹鶴姫はいったいなんのために源氏に肩入れしたのか、という虚しさを噛みしめていたに違いない。
(この項終わり)

八咫烏

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