政治的な活動
mizuno-tadanaka-120x180紀州徳川家は、いわゆる「御三家」としてその力を発揮したわけですが、その付家老として活躍したのが、田辺の安藤家と新宮の水野家でした。安藤が本藩担当(和歌山)、水野が江戸詰めという役割でした。

その新宮領水野氏の九代領主が水野忠央で、本藩の政治にも深く係り、江戸幕府でも大老井伊直弼の側近として中央政治にも関与しました。

忠央は文化11年(1814年)の生まれ、幼名は健吉、藤四郎。天保6年(1835年)家督を継いで当主となり、紀州本藩でも頭角を現していきます。寡永2年(1849年)徳川斉疆(なりかつ)が死去してわずか4歳の徳川慶福(よしとみ)が藩主になると、忠央はこれを補佐することとなります。

初めは、10代藩主の徳川治宝(はるとみ)が隠居中でありながらも存命していて、実験を握っていましたが、寡永5年(1852年)治宝が死去すると、周囲の批判をものともせず、伊達宗広(陸奥宗光の父)を田辺に幽囚、玉置縫殿(熊野三山貸付の総元締め)を新宮で投獄するなど、治宝側近を処断して改革を断行しました。

時の13代将軍徳川家定は病弱な上、後を継ぐ子がいませんでした。そのため、将軍の跡継ぎをめぐって、水戸藩の徳川斉昭の子慶喜を推す一橋派と、慶福を擁立する南紀に分かれて激しく対立しました。忠央は彦根藩の井伊直弼と手を結んで慶福を推し、幕府で隠然たる勢力を持っていた阿部正弘が安政4年(1857年)亡くなると、妹お広(後のお琴の方)を送り込んでいた大奥とも手を結んで、翌年14代将軍として慶福改め徳川家茂を実現させました。熊野材や熊野炭で培った経済力を背景にした活躍は、政敵から「炭屋」とか「土蜘蛛」と陰口をたたかれるほどでした。

開明家忠央
忠央は一方で、時代の先を読む進歩的で開明的な思想の持ち主でした。蘭語や英語、フランス語などの原書を多く翻訳させ、洋式砲術や造船、操船術などを研究させました。安政の初め、他藩に先駆けて兵制を改革し、西洋式調練を採用、騎馬調練「丹鶴流」は、江戸に広く宣伝されて、遠近からの参観者が群れをなしたといわれています。造船にも力を尽くし「丹鶴丸」を完成させますが、航行には困難をきたしたといわれます。製紙、製薬を興し、北海道の開拓や、小笠原での捕鯨の試みなど、忠央は多くの企てを行いました。

「南紀徳川史」という本が、忠央のことを「性豪邁有為、頗る学識ありて、国学を好む」と記しているように、本居大平門下の一人として「丹鶴詠草」五冊の著書があるほど、国学者としても著名な君主でした。

また、忠央が文教の振興に尽くした功績も忘れることはできません。江戸新宮藩邸に育英館を起こし、赤坂邸に紀州藩校文武館を設けて、寡永・安政年間(1848-60年)の紀州における文武の勃興と呼ばれる時期を築き上げています。

丹鶴叢書の編纂
tankaku-sosho-120x109そうして、後世にも残る文化的大事業として、「丹鶴叢書」の刊行を行っています。それは、水戸藩の「大日本史」、塙保己一の「群書類従」編纂と並んで、江戸三大名著として高く評価されるものです。その内容は、歴史、記録、故実、歌集、物語などで、珍しくて手に入りにくい書籍類を集めていて、「丹鶴叢書」という名称は、新宮城を別名丹鶴城と呼んだことから付けられました。

七帙171部152冊という膨大なもので、当初は1千巻を目指したといわれていますが、幕末の多事多難ななか、安政時代になって中止せざるを得なくなりました。この事業を中心として担ったのは、国学者山田常典でした。当時から、この叢書は校訂が厳密で、板刻が精美であると評判で、版下のほとんどは常典の能書によるものです。

版木はおよそ1万5千枚を要したといわれています。今と違って、一字一字、彫刻刀で木に刻み、一枚一枚を刷りあげていったのです。常典は編纂に心血を注いだために、戸外に出ることなく足が萎えて立てなくなったほどです。いま、丹鶴叢書の揃いは、熊野速玉大社神宝館に保存されているのが、現在最高のものといわれてます。

幕末から明治へ
黒船来航をきっかけにして起こった、幕末の勤皇や開国の考えが錯綜するなか、安政7年(1860年)3月3日、大老井伊直弼は江戸城桜田門外で水戸藩士によって暗殺されます。やがて、一橋派や反井伊勢力が巻き返し、忠央も同年6月失脚、家督も嫡男忠幹に譲って、強制的に新宮での蟄居を命じられます。謹慎処分は元治元年(1864年)解かれますが、翌慶応元年(1865年)52歳で死去します。新宮市橋本の水野家墓所には歴代領主の墓石が並んでいますが、亡骸が納められているのは、新宮で死去した忠央だけだといわれています。

忠央が新宮に幽閉されたことは、忠央にとっては不遇なことでしたが、忠央や家臣の多くが新宮に滞在したことは、新宮の地に江戸風文化を伝えることにもなりました。新宮城下に狂歌や川柳、都々逸などをやる風流人を多く生んで、明治の世までも受け継がれていきました。食の文化などでも江戸風の多くが残されて、今日まで関西風とは違った食文化を生みだしたといえます。

幕末の慶応4年(1868年)1月、長年の望みがかなって、忠幹は紀州藩から独立して藩屏(直轄の領地を有する)の列に加えられ、新宮藩が独立します。9月に明治の代となり、明治4年(1871年)和歌山県に編入されるまでしばらく新宮県が独立して置かれていたのはその名残です。

(八咫烏)

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