遭難事件によって一度は終焉した太地の捕鯨であったが、生き残った人々の手で細々と捕鯨が再開された。わずかに残った古式捕鯨の道具をもとに捕鯨を再開する者や、外部の資本家の力を借りて再開する者もいたが、期待する成果は得られなかった。

明治時代の後半にはノルウェー式捕鯨法が導入され、近代捕鯨へと進んでいく。太地町では、ノルウェー式捕鯨法導入とともに、アメリカ出稼ぎから帰国した前田兼蔵が、ボムランス銃にヒントを得て小型捕鯨用の三連銃および五連銃を開発し、大きな成果をあげた。

また、当初は和船を改良した船に用いたが、太地独特の小型捕鯨船・天渡船を開発し成果をあげた。こうして遭難事件以来活気を失っていた町が、再び捕鯨活動への意欲を取り戻したのであった。

太地では、大正・昭和(戦前)期には多数の人が捕鯨に従事して生計をたてていた。昭和十(1935)年に日本が南氷洋捕鯨を開始するにあたり、全国各地から捕鯨技術者を集めたが、太地町からも経験豊かな技術者が参加している。

昭和十六(1941)年、太平洋戦争がはじまると南氷洋捕鯨は中断され、戦禍の広がりによって沿岸小型捕鯨も中断された。戦争は日本に甚大な被害をもたらし、国民は食糧難にさらされた。GHQ司令官・マッカーサーは食糧難を克服するために、昭和二十一(1946)年に南氷洋捕鯨の再開を許可し、太地の人々も再び捕鯨に従事することとなった。

太地の若者は、中学校を卒業すると地元の小型捕鯨船に乗り込み、捕鯨者としての経験と訓練を重ね、やがて大型捕鯨船による南氷洋捕鯨に参加し、砲手や機関員や甲板員として食糧確保のために活躍した。

戦後の日本の経済発展はめざましく、他に類を見ないスピードで経済大国になった。しかし、その陰で一次産業、とくに水産業の衰退は著しく、環境問題の高まりとともに捕鯨活動も厳しさが増していった。昭和五十七(1982)年のIWCによる商業捕鯨モラトリアムの決議を契機に、太地の人々も働く場を失い、町の活力も低下していった。

しかし、太地の人々にとって捕鯨は依然として大切な産業である。現在、南氷洋の調査捕鯨に二名の若者が参加し、沿岸小型捕鯨船による調査捕鯨には二隻の捕鯨船が参加している。また、国および県の許可に基づく小型捕鯨(イルカ、ゴンドウクジラなど)を対象にした「伝統的鯨類追込捕鯨」により、一定数の鯨類が捕獲されている。

太地では、昭和二十年代から四十年代半ばまで、男性就労人口の約半数が捕鯨に従事していた。昭和四十年代後半から船団規模の縮小により漸減し、昭和六十二(1987)年の商業捕鯨停止時点には、約70名が完全離職者となってしまった。現在(2009年)は、小型鯨類の捕獲に従事する人が約40名となっている。1990年代には20代、30代の若者の参入は皆無であったが、現在は10名が従事し、捕鯨の伝統技術を継承するとともに、捕鯨文化を守っている。

(出典:クジラと日本人の物語―沿岸捕鯨再考:執筆者:くじらの博物館元館長・北洋司)

0