日本の捕鯨場が大きな打撃を受けるさなか、太地では追い打ちをかける悲劇が起こった。明治11(1878)年12月24日の午後に「子連れのセミクジラ発見」という報せが鯨方の総指揮者である和田、太地両家に伝えられた。

季節性の大型鯨種が親クジラを確実に捕獲できる「子連れ」で来遊してきたことは、太地の人々には願ってもないことであったため、悪天候をおして出漁が決行された。

ところが、捕獲作業のさなかに海は荒れ模様になり、仕留めたクジラを港にもち帰るどころか、船は黒潮の本流に飲み込まエ、多くが遭難して、百十数名が帰らぬ人となってしまったのであった。

筆者の曽祖父・沢太夫もこの遭難事件に巻き込まれたひとりである。幸いにも伊豆七島のひとつである神津島に漂着したところを島民に助けられ、約三か月後に太地へ帰ってきたという。

この事故により、太地鯨方は壊滅的な打撃を受けた。村は大きな悲しみに包まれ、働き手を失った家族は路頭に迷うこととなったために、和田・太地両家は村民救済のためにすべての私財を提供したと伝えられている。こうして約三百年近く続けられてきた太地の古式捕鯨は終焉した。この事故は「背美流れ遭難事件」として現在も語り継がれている。

紀伊半島の厳しい自然の中で生きるためには、海は重要な生活の場である。捕鯨の道を断たれた太地の人々は生きるために働き場を海外に求め、多くの人が出稼ぎのために海を渡った。

(出典:クジラと日本人の物語―沿岸捕鯨再考:執筆者:くじらの博物館元館長・北洋司)

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