和歌山県太地町の捕鯨の歴史は古く、日本の捕鯨の歴史といっても過言ではない。今から400年以上も前の慶長11年(1606)に地元の豪族出身である和田忠兵衛頼元と、泉州堺(大阪府堺市)の伊右衛門と尾州師崎(愛知県知多郡南知多町)の伝次という漁師が捕鯨組織を創始し、捕鯨をはじめたと伝えられている。(紀伊続風土記)

当初は手投げ銛を打ち込むだけの突取法だけであったが、確実に捕獲することが難しく、失敗することが多かった。そこで考案されたのが網掛突取法であった。網掛突取法とは、クジラを発見したら勢子船で追尾し、クジラが逃げる先に長い網を仕掛け追い立てる。

クジラが網にからまり、動きが鈍ったところで一番船から銛を投げた後、ほかの勢子船から一斉に銛が投げられる。この銛を投げる役割を羽刺といい、一番羽刺から二番、三番・・・と位と順位が決められていた。また、羽刺には豊太夫、浦太夫・君太夫・沢太夫・・・というように、「太夫」という呼称が付けられ、捕鯨組織や一般漁民、地域住民の尊敬の対象となっていた。

位の高い羽刺が乗る船はそれぞれ彩色され、一番船は「桐に鳳凰」、二番船は「割菊」、三番船は「松竹梅」、四番船は「菊流し」、五番船は「蔦模様」というように、絵柄が決められていた。それ以下の船には割菊と番号が付けられた。

網掛突取法を考案したのは、和田家三代目・頼元の孫、頼治である。新しい漁法の導入は大成功をもたらし、多いときで年間百頭ものセミクジラを捕獲したと記録されている。

網掛突取法の成功は四国や九州の捕鯨場に伝わり、網掛突取法の伝授を求められた。頼治はこの技術を惜しげもなく伝授し、その功績に対して領主から「太地」の姓を賜り、太地角右衛門頼治と名乗ったと記録されている。

その後、網掛突取法は西日本の多くの捕鯨漁場で採用され、多大な成果をあげた。和歌山藩では、網掛突取法の導入以前の寛文三(1663)年、すでに太地の西隣の古座浦(和歌山県東牟婁郡串本町)に藩管轄の鯨方(鯨組)を設けていたが、網掛突取法の導入によって、その後の40~50年の間に新宮三輪崎浦(和歌山県新宮市)をはじめ、和歌山藩領すなわち、現三重県北牟婁郡長島以西の浦々にまで広げ、また四国、九州一円でもおびたたしい捕鯨漁場が誕生した。

太地をはじめ多くの捕鯨漁場は繫栄していたが1800年代になると欧米の捕鯨船団が日本近海に押し寄せ、沖合で大量のクジラを捕獲したために、日本の捕鯨漁場は不漁に陥ることとなった。これにより各地の鯨組は休止あるいは停止に追い込まれていった。

(出典:クジラと日本人の物語―沿岸捕鯨再考:執筆者:くじらの博物館元館長・北洋司)

0