sannaimaruyama東北地方では、初めての土地を訪れても「懐かしい」という印象を持つから不思議である。僕のDNAのなかに遠く縄文の記憶がインプットされているのだろうか。青森のねぶた祭りのあの熱狂、火焔土器などに象徴される雄渾な魂を目の前にすると気持が高ぶってくる。

そして興味があるのは伝説の多いことだ。義経北行伝説、ザシキワラシ伝説などのほかに、「国際的」な広がりのある伝説もある。歴史には正史と称される光の部分とその裏側に潜む影の部分とがあり、影の部分は信頼できる資料が残っていないとか、単なる伝説に過ぎないとかの理由で葬りさられているが、それらがすべて風聞の類とは言いきれないだろう。東北にはこの影の部分が多いのである。清濁合わせ飲むというか、すべてを全部包括してしまうパワーが東北にはあるのだ。

そのなかで僕が好きなのは、青森県三戸郡新郷村に伝わるイエス・キリストの伝説だ。この村の伝説はこうだ。エルサレム郊外のゴルゴダの丘で処刑されたのはイエス・キリストの弟のイスキリで、逃れたイエスは母マリアと弟の形見を持ってシベリアを経て日本に渡来。名前を十来太郎大天空と名前を変えて新郷の戸来に住み、ここで106歳の生涯を閉じたというもの。

これは有名な「竹内文書」に基づいているものだが、村にはキリストの墓が残っており、地名の戸来とはヘブライが転訛したものといわれている。また、ユダヤの王ダビテの星形を家紋にしている旧家もあり、子どもが生まれて初めて戸外に出るときには、額に墨で十字架を書き入れる。

また、村に古くから伝わる盆踊りの歌に「ナニャドヤラー、ナニャドナサレノ、ナニャドヤラー」という意味不明の歌詞があるが、ヘブライ語に訳すと「御前に聖名をほめ讃えん」などの意味があるという。キリストの墓だとは思わないが、あの村にユダヤと関係ある人たちがやって来た可能性はあるだろう。

■やがて謎の中国人、徐福の渡来がブームになるもうひとつ、僕が興味を持っている徐福伝説が津軽半島の小泊村にある。徐福とは? 中国の歴史書「史記」によると、今から2000年ほど前、秦の始皇帝の命を受けた徐福は不老不死の仙薬を求めて、童男童女数千人を引き連れて東海に浮かぶ三神山に向かって船出し、戻ってこなかったとある。この「東海」というのは日本を指すとは断定できないが、日本には熊野をはじめ佐賀、富士山、丹後半島など20カ所に徐福伝説が残っていて、津軽半島はその分布の一番北にあたる。

さて、小泊村の伝承によると、徐福船団の部下の船は紀州熊野に着いたが、徐福の乗った船は風浪のため津軽半島に漂着した。その後、彼は中国に帰り、そこで死亡。1711年(正徳元年)徐福の子孫がこの地にやって来て徐福の像を持ってきたというもの。

徐福が来日したという時代は、日本が縄文から弥生時代へと移行するころであった。そういう時代に中国から水田耕作の知識のほか、造船、航海、医薬、精練などの最新の技術を身に付けた集団を徐福が日本へ連れてきていたとしたら・・・揺籃期の日本の歴史は大きく書き換えられることになるだろう。

原野に残された、縄文人のメーッセージ

その青森の三内丸山から超ド級の縄文遺跡が発掘された。今から5500年前に、1500年もの間、推定では500人もの人が生活していたという。つまりエジプトのピラミッドが造られる1000年も前に、村という概念をはるかに超え、高度に都市計画がなされた集落が東北に存在したのである。「四大文明」に匹敵するほどの高度な文明が、すでに日本に生まれていた可能性があるわけだ。原始的な狩猟採集をしていたという従来の縄文観を根底から覆す画期的な大発見だった。

東北は京都中心の西日本文化と比べてみると始終劣勢に立たされてきたという観が強く、蝦夷の地として忘れ去られてきた歴史がある。それが、この三内丸山の縄文遺跡の発見によってがみごとに立場が逆転したのである。

三内丸山遺跡からは、巨大柱穴の跡、縄文ポシェット、漆器などダンボール箱4万個におよぶ遺物が発掘され、それらの一部は陳列されているのだが、僕が一番興奮したのは、縄文人たちの交易範囲がとてつもなく広かったことだ。たとえば新潟県糸魚川産のヒスイ、岩手県久慈産のコハク、北海道赤井川産の黒曜石などが三内丸山に運ばれてきているのである。三内丸山は東北を代表する交易センターであったのだろう。

縄文の謎としてストーンサークルがある。世界には、イギリスのストーンヘンジをはじめ、巨石を並べたり積み上げたりした巨石記念物がたくさんあるが、日本の場合は石を同心円状に並べた環状列石である。遮光器土偶は宇宙人がモデルではないかといわれて久しいが、ストーンサークルは宇宙との交信基地ではないかと言う人もいる。これらの環状列石はなぜか東北、北海道に集中していて、東北だけでも15を超える環状列石がある。

その中でも有名なのが大湯の環状列石。これは90メートルの距離を隔てて存在する野中堂・万座という環状列石の総称である。秋田県の鹿角市の郊外にあり、約4000年前に作られたものといわれている。

2つのストーンサークルの直径は50メートル弱もあり、一見、石の固まりが雑然と並べられているように見えるが、数個から十数個の石が円形や方形のグループを作り、それらの組石の集合体が環状になっている。その組石のパターンは8種類で、石の数は約1000個。組石群の下から石器や土偶なども多く出土していること、動物性の脂肪が検出されていることから、墓であったという説が有力だ。

しかし、最近の研究でこの石の配置は、太陽の沈む位置を意識して並べられているのである、ということがわかった。これらの環状列石のなかには日時計状の配石があり、これら日時計と野中堂・万座の中心を結ぶと1本の線になる。ここに夏至の時に4本のポールを立てたらこの延長線上に太陽が沈んだ。縄文人たちは太陽の出る位置と沈む位置の周期性と四季の関係を読み取っていたのである。

さらにおもしろいことに、この遺跡から北東2キロ先に見える黒叉山(通称クロマンタ)も「日本のピラミッド」として、最近注目されている山だ。環太平洋学会が地中レーダーなど本格的な調査を進め、クロマンタが自然の山を利用して造った階段状の人工ピラミッドであることを発表している。

東北の遺跡やミステリースポットを訪ねても、ただの原っぱや石の固まり、あるいは穴ぼこが開いているという殺風景な風景が広がっていることが多い。だから自然と自分で空想をふくらませ仮説を立てるようになる。これこそが東北を巡る旅の奥深い魅力なのである。

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【編集後記】
森本剛史の世界の紀行文シリーズは今回で終了です。森本剛史君が私にホームページ「旅好堂」に掲載してほしいといっていた紀行文の原稿はまだまだ沢山あったのですが、彼が私宛にメールで送る前に別れが来てしまいました。こんなことなら、もっと早めに全部原稿をもらっておけばよかったと残念に思います。

明日からは、新高の先輩で時代小説作家であった新宮正春さんの特集「その時熊野は動いた!」をお送りします。乞うご期待!

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