お燈まつり

お燈まつりは熊野の冬を彩る最大の祭りで、毎年2月6日の夜、熊野速玉大社の元宮である神倉神社で開催される。当日は夕方から、白づくめの夕食をすませた上り子(あがりこ)が、白襦袢。白股引・白頭巾・白足袋に草鞋をはき、腹には荒縄を5重か7重に巻いて、手には檜板を五角錐に組んだ松明を持って町に繰り出す。

上り子は速玉大社と阿須賀神社、神倉山麓の妙心寺に詣で、神倉山の538段の急な石段を登って行く。一方、午後6時、神職と祭りの執行警備役の介釈が、速玉大社の夫須美神に拝礼した後、行列で神倉神社に向かう。法被姿の介釈は30人ほどで、代表が2メートルもある迎火大松明を持っている。神火を上り子の松明にうつすための松明だ。神職が持っているのは修験者の入峰斧である。

上り子は寒気の中、神倉山上の神社前広場と中間地点の中之地蔵で待機している。その間、宮司が神前の岩陰で火打ち石で斎火をつくる。神殿の扉が開かれ、神饌や迎え火大松明を供えて神事が行われたあと、斎火が大松明に点火される。大松明は介釈に守られて、中之地蔵まで下り、上り子の松明につぎつぎと移されていく。山上広場で待っていた上り子にも点火され、山は2000人ほどの松明で火の海のようになる。

だが、一部の上り子は先頭を競って、なかなか木戸(鳥居)のなかに入ろうとしない。このとき、介釈と上り子の激しいこぜりあいがある。ようやく木戸が閉められるが、火と煙で山上は騒然となる。午後8時、介釈によって木戸が開かれると、上り子はわれ先に石段を駆け下り、見物人に迎えられながら、松明を大事に持って自宅に帰る。

お燈祭りは、江戸時代までは毎年正月6日に行われていた。近世中期の「神倉司祭記」によると、聖が祭りをとりしきり、中之地蔵の上り子200人ばかりを斧をふるい山上の本堂に閉じ込め、焦熱地獄にし、戸が開くと先を争い駆け下ったという。

天保10年の「紀伊属風土記」にも、「参詣の者焼松を持ちながら残らず堂内に入るに及ひて、神倉聖堂の戸を閉ちて誦経をなす。其間数千の焼松にて堂内を焦がすが如く。……誦経終りて戸を開けば、皆競い下る」と記されている。

昔は神倉聖によって山上の本堂に閉じ込められ、火と煙で地獄の苦しみを体験させられたのだ。この本堂は、12x5間の大きな懸造の拝殿で、1880年(明治13年)まで山上のゴトビキ岩の南面に建っていた。この中に数百人が松明を燃やしたまま閉じ込められたのでは、たまったものではない。

ところで、迎え火大松明がわざわざ中之地蔵まで下りて来るのを不思議に感じたことはないだろうか。実は、江戸時代まで神倉本願寺院として中の地蔵堂の造営・修復を分担してきた妙心寺の「桜本家御玄関日記」に、「御燈の火を焚き始め、数百人参詣人へ松明の火を移し候には当家の社役にて」とある。上り子が中之地蔵で火をつけてから登る作法は、修験寺院の妙心寺が聖火を出した名残りかもしれない。

古来、修験者(聖)の行場として栄えてきた神倉山。彼らは霊山の聖火を守り伝えるのが役務であった。御燈祭りは、神倉聖が断食の年籠修行の末、神年越のこの日、新年の聖火を更新し、それを人々に分与する儀式であったろう。このとき、神倉聖によって堂内に閉じ込められた上り子は、人と煙で除魔の浄化を受け、超自然力を憑けられて、いわば神がかり状態で山を駆け下り、聖火を自宅の御神灯に灯し、一年の平安と所願成就を祈念した。

お燈祭りには、新年にあたり、聖火を更新し、上り子の魂の蘇りを祈願する、厳格な修験の山の再生儀礼が「火竜」のように息づいている。

出典:「南紀と熊野古道 (街道の日本史)」より

(八咫烏)

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