book-bunka-rekishi-120x90大石誠之助宅跡(新宮市船町2丁目2-2~4-1)【地図】

大石誠之助(1867-1911)が大逆事件に連座するまで住宅兼医院として使っていました。当時の新宮の知識人の中で社会主義の枠にはまらないユニークな思想を展開したリーダー的存在でした。

大石誠之助は1867年(慶應3年)新宮で生まれています。大阪の梅花女学校で学んだ姉睦世の影響で、兄余平らも洗礼を受け、兄たちの努力で1884年(明治17年)新宮仲之町にキリスト教会堂が建立されています。

okino-ooishi1誠之助も最初はキリスト教の影響で同志社英学校などで学んでいますが、1890年(明治23年)に渡米、コックなどをしながら苦学生としてオレゴン州立大学医学科を卒業します。

当時アメリカではスクールボーイといって、苦学しながら大学を卒業するシステムが整っていました。誠之助の西洋料理への関心もこのころから培われ、「元来料理法は一つの学問であり又技術であって、少しも卑しむべき仕事でなく、人間畢生の職業としても決して恥ずべき事でない」(「在米修学とコック」)と述べています。

在米のとき、誠之助の後見役であった兄余平夫妻が、1891年(明治24年)の「濃尾大地震」で突然亡くなるという悲劇に遭遇しますが、帰国はかないませんでした。

母の死をきっかけに1895年(明治28年)帰国した誠之助は、翌年新宮の仲之町で開院します。「ドクトル大石」と小さな表札だけを掲げていたということですが、町の人々は、梅毒や胎毒を取ってくれる「毒取る」さんと理解していたということで、「どくとるさん」と呼び親しまれていました。

お金持ちには過分な治療費を請求し、貧乏な人々からは「無請求主義」というのを貫いて、お金が払えるまで気長く待つ姿勢で診察にあたりました。投薬についても極力控えめで、どこそこにある草の汁を塗っておけばよいと指示する有様でしたから、ちょうど町の「赤ひげ先生」を実践していたわけです。

伝染病の研究で一時インドに滞在したとき、インドの差別制度であるカースト制度を見聞したことが、誠之助が社会主義の研究や、一般の人に広く考えを伝える啓蒙活動に力を尽くすきっかけになりました。

大逆事件とその後

taigyakujiken-kenshohi1天皇暗殺を企てたとする「大逆事件」の疑いで逮捕され、「暗黒裁判」(傍聴人やひとりの証人も許されず、ただちに今の最高裁判所にあたるところでの結審など)といわれる形で死刑を宣告されたとき、誠之助は「嘘から出た真」というセリフを残したといわれています。

「何ものの 大なる手か つかみけん 五尺のをの子 みぢろぎもせず」という判決の日の和歌も残されています。無実の罪で死刑判決が出されたという反響で、アメリカやヨーロッパでの抗議活動が大きくなりかけたとき、政府は死刑執行を断行します。それは、判決からわずか六日後のことでした。

のちに、首相を務めた若槻礼次郎は、その回顧録「古風庵回顧録」で、「神様が死刑になる」と述べ、貧民に神様と慕われた誠之助に触れ、天皇の恩賜(恵みたまわること)によって始まった済生会病院の起こりは、庶民のための医療に尽くした誠之助の死を無駄にしない心やりも含まれていたのだろう、という意味のことを述べています。

作家中上健次が「私の中の日本人」として選んだのが、この郷土の先人大石誠之助であったことも忘れてはならないことです。

(出典:熊野新宮発「ふるさとの文化を彩った人たち」)

西  敏

 

 

 

0