戦後生まれで初の芥川賞受賞

nakagami-kenji-120x1501946中年(昭和21年)8月2日生まれの中上健次は、県立新宮高校を卒業するとすぐに上京します。東京オリンピックで大きく変貌を遂げた直後の東京でした。同人雑誌「文藝首都」で文学修業をし、ジャズ音楽にも堪能する日々を送ったといいますが、その後の活動の養分はここで培われたました。

そのころ、のちに芸術や芸能など、さまざまな分野で才能を開花させる人たちが東京・新宿に集まり、切磋琢磨する形で刺激しあっていました。ビートたけし(北野武)もそういう一人として中上の知り合いでした。

29歳のとき、戦後生まれとして初めて、「岬」で芥川賞を受賞した中上は、「枯木灘」「地の果て 至上の時」という長編小説を次々に書き上げ、たちまち新文学の旗手として広く認められてゆきます。これらの小説の主人公は「秋幸」と命名されていますが、このいわゆる「秋幸もの」が、中上文学の大きな核を形成していることは間違いありません。

初期のエッセイ「紀州弁」

また、中上健次はすぐれたエッセイストでもありました。時代を鋭く見据えた批評眼は、初期のものからもうかがえ、たとえば、高校の国語の教科書にも採用されている、初期の短いエッセイに「紀州弁」があります。

そこには、やがて中上文学の本質になるようなものがさりげなく散りばめられています。まず、中上は、紀州弁に敬語がないことから説きはじめます。そして、紀州弁、新宮弁では、人もものも「ある」と表現する問題に言い及びます。人は「いる」で、ものは「ある」という一般的通念に対して、紀州、新宮ではその区別がない。

しかし、そのことは、「紀州というその風土に生まれた小説家としてのぼくは、敬語、丁寧語のない言葉を血肉に受け、人がいるのではなく、在る、在ってしまう世界を書こうとしているのだ」という決意を語っています。そして「一人の青年が、土方として、ここに在る。決して、それは「いる」のではない。まず、肉体として、在る。汗を流すズボンの裏をひっくり返すと、体から流れでた汗が、乾いてしまい、白い塩の結晶になってくっついている。また、働く」と述べています。

「いる」よりも「ある」の方が非文学的、だから「在る」ことの快さは、非文学的な快さかもしれない、とも言います。もちろん中上健次は優れた小説家文学者なのですが、従来「非文学的」とみなされた世界を文学作品として描き出す、その逆説的な営みのなかから、独特の力強さが生まれてきたともいえます

「『標準語』を使う標準人のように『いる』ことを言い始めると、この世界に生きることに、臆病風を吹かすことになる」という中上は、紀州、熊野の「在る」姿を、そこに生きる人々を、さまざまな作品のなかに描き続けたのでした。

「路地」の世界の発見

紀伊半島の不当に差別されてきた被差別部落の人々を取材した、ルポルタージュ「紀州 木の国根の国物語」は、戦後を代表するノンフィクションとして高い評価を得たものです。ルポの取材が終了した時点で、部落青年文化会が結成され、定期的な講演会が春日隣保館(現新宮市人権センター)で開かれてゆきます。

なかで、中上は「オリュウノオバ」のモデルとなる老婆と出合います。文字を知らない人でしたが、その多くの語りのなかには、汲んでも尽くせないような記憶が堆積されていました。「オリュウノオバ」の発見は、中上文学の新しい局面を開くものとなりました。これより先、「路地」の世界が中上文学のバックグラウンドとなってくるなかで、オリュウノオバの語りが、あらゆるものを包み込んでゆくような愛しさ、優しさとして、中上文学に幅と拡がりと深みとをもたらします。「千年の愉楽」や「奇蹟」が、単に百年の近代文学の歴史ではない、大きなわが国の物語につながるべきものだ、という評価も生まれました。そんななかで、未完の大作「異族」が書き継がれてゆきました。

中上文学の入門として、読みやすいのは、新聞連載小説「鳳仙花」でしょうか。これは、母親の半生をモデルに描いた作品で、古座や新宮の太平洋戦争前の困難な生活ぶりなど、その社会背景を知ることができます。さらに、中上作品と映画や演劇との関係や、晩年の劇画への取り組みなども注目されているところです。

世界文学への途中

1988年(昭和63年)、テレビドキュメンタリー「ライターズ・オン・ザ・ボーダー」の撮影が、東京や熊野で行われています。世界の作家五人のうちの一人に中上が選ばれ、翌年ヨーロッパ各国で放映されました。

中上健次の文学が「新宮のことを書きながら、世界文学だった」という評価が生まれてきます。ギ・ソルマンという人が「二十世紀を動かした思想家たち」という本を書いていますが、そこで選ばれている二人の日本人は、生物学者で遺伝学が専門の木村資生と中上健次です。

後年、中上は高校時代の同級生たちと、熊野復興を掲げて「熊野大学」を立ち上げています。「建物もなく、入学試験もなく、卒業は死ぬとき」を合言葉に発足した自主講座には、多くの作家や芸術家が参加しています。引退していた歌手の都はるみが復活するのも、本宮の大斎原での公演がきっかけでした。残念ながら、中上は最初の「卒業者」になりましたが、熊野大学は中上の遺志を継ぐ人々によっていまでも毎夏新宮市高田のグリーンランドを中心に開かれています。参加者の中から、芥川賞をはじめ文学賞に輝く人たちも出ています。

(出典:「熊野・新宮発「ふるさとの文化を彩った人たち」)

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