(略)谷中安規ははじめ朝鮮の親もとから脱出して来て長谷川巳之吉氏の第一書房の発送係か何かに住み込んでゐた二十ばかりのころ、友人堀口大学のところで初めて出あった後、僕が彼の画才と赤貧に処して卑俗でないその生活態度とを愛してその後久しく交際したものであった。/

彼は後には一種幻想的な版画家として特異な才能を示して、一部の人々にも才能を認められたものであったが、一向に金にならない仕事だけに、その洗ふが如き赤貧は生涯変わらなかった。

ときどき二、三日何も食べてゐないと言って僕の家へ飛び込んできて、粗飯をともにしたり、炭が無くなって寒いとストーブにあたっては帰りがけに木炭の数個を新聞にくるんで懐中したり、さてはギジョー一つ(といふのは五十銭貨のことなので彼の徴発の標準価である)と手を差し出したまま門口から引き揚げていく日もあった。

こんな時には仕事に興が乗って閑談のゆとりがなかったのであらう。彼の閑談は二、三わが短編の素材ともなっている。/

作品はときどき展覧会場にも出たやうであるが、広く一般に喜ばれる性質のものではなかった。しかし優秀なものには相違なかったのだから、僕はときどき自著のさし画や装幀などもt頼み、また当時、親交のあった内田百閒にも頼んで仕事を与へてやってもらったりした。(略)

二十年の春、僕は疎開に先立って、風呂敷包み一つぶらさげて来た彼に、新潟県の寺に嫁してゐる姉の所へ再び寺男に住み込んで疎開せよ、今なら戦災者にまぎれて遠く行くこともできると案を授けて別れた。/

その後、、西ヶ原に壕舎を設けかぼちゃを植えゑ、それを食糧として生きてゐたらしい。二十年の今ごろ久しぶりにその近況を報じた手紙を、僕あてにではなく息子の方哉あてによこして、きのう誰(であったか)の好意でやっと壕舎に電燈がひけてその下でこの手紙を書いたといふのであった。(略)先に藤沢清造、後に谷中安規、わが生涯に見た餓死の二芸術家である。

(1955-56「日本経済新聞」連載・『続白雲去来』所収)
(佐藤春夫の谷中安規追悼)

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