福田世耕(静処)(1865-1944)は、新宮藩士中村淳一の次男として、丹鶴城下明神山麓の379番地に生まれました。母はいし、長男は行藏(後に書で有名、号は師竹)、姉はな、妹こうのの6人家族でした。後に福田家の養子になりました。

静処は、正岡子規が俳句革新を行ったときの初期の仲間で、明治29年(1896年)32歳のとき、新聞「日本」誌上で「昨年中著き進歩を為したるは把栗(はりつ)なり。把栗昨春始めて俳句を試み秋冬に至りて既に一家を成す。其趣向多く漢詩より来る。清遊瀟洒すべき者多し」と、正岡子規に激賞されます。把栗とあるのは、静処の俳号です。

また、正岡子規の「仰臥漫録」(明治34年(1901年)9月29日)に次のように出ています。

「把栗来る 長州へ行きかつ故郷に行きてすぐ帰るとなり 細君孕みしとなり 男子生るべしとの予言なり 天津より来たりし押絵一枚産屋のかざりにと贈る」

このように俳句雑誌の「ホトトギス」でもしばしな登場しますが、子規が亡くなったのち、福田静処は俳句から遠ざかっていきます。これは、自分の本分は漢詩にあると、思っていたからでした。静処の号は、漢詩を作るときに使いました。

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